「熱帯と創作」(8) 『戦線』~林芙美子の本心~
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戦争中、火野葦平が男性の国民的人気作家なら、女性は『放浪記』で有名な林芙美子でした。庶民を描く名手ということも両作家に共通しています。
林は戦場に三度赴いています。中国戦線に二度と南方方面に一度です。最初は、1937年(昭和12年)12月、南京陥落のときです。「東京日日新聞(今の毎日新聞)」の従軍特派員として、上海、南京へ赴きました。「女流一番乗り」と報道され、世間の注目を集めました。二度目の漢口攻略戦(1938年9月)では兵隊と共に漢口まで行軍し、「漢口一番乗り」を果たしました。
林は「ペン部隊」*の活動で、漢口従軍体験を書簡体の『戦線』と日記体の『北岸部隊』の二冊に書き分ける離れ業を演じました。『戦線』は朝日新聞社との共同制作によるメディア・イベント作品として、「『戦線』本日発売!」と全三段の特大広告が打たれ、「日本中が待ち焦がれた感激の書!」「全篇書き下ろしの力作!」と強調されました。メディアの林への過熱ぶりは異常なほどでした。
「漢口従軍を前にして」と題した文士の決意表明では、「ぐんぐんこの時代と共に、私は逞しく素朴に進んでゆきたいと思っている」と表明しています。そのあとも寄稿、談話、戦況記事をとおして林の動静は報じられていきます。林が従軍から帰国した後も、戦死した梅村少尉の家族を訪問する美談記事が掲載されたり、『戦線』の出版を機として軍部に献金したりしたことも宣伝されました。また、『戦線』の演劇も上演され、さらにアサヒグラフ主催の「林芙美子撮影『戦線』展」も開催されました。
このように林はメディアのプロパガンダにすっかりはまり込んだようにみえます。しかし、『戦場で書く』の渡辺孝は、林の従軍手帖にある「農家に敗残兵五人ばかりあり、通りがかりの兵これを殺してしまふ」という記述を見て、「殺してしまう」という言葉に林の本心を見ます。「なんで無抵抗の敗残兵まで殺してしまうのか、と林が訴えているように思えたからだ」と書いています。『戦線』を書くに当たっては、「味方を美しく、敵を悪く書け」との軍の指導がありました。従軍手帖には思わず本音が出たのではないかと私も感じます。
林は、漢口陥落を祝う提灯行列を目の当たりにしたとき、その熱狂ぶりに異常なものを感じ、「よろめきつかれた蛾のようだった」と自らを表現しています。また、『戦線』の後記に次のような文章を書いています。
<私は戻って来て、この「戦線」と「北岸部隊」を書いた以外には何も書きません。私は、私の見て来た戦場を、もっともっと深くかみしめて、長い年月をかけて、また違ったかたちで書いてみたいともおもっております>
林は軍の縛りの中で書いた従軍記に納得できず、また、自分を離れて国民がどんどん浮かれていく姿にも白けていました。林の感覚は、国民の熱狂ぶりとはあまりにもかけ離れていたのです。「また違ったかたちで書いてみたい」と言った林ですが、それは、戦後に書いた『浮雲』という小説ではなかったかと私は思っています。
*「ペン部隊」:内閣情報部が昭和13年8月23日に文芸家と懇談会を持ったことで誕生した従軍文士団体。人選は文芸協会会長の菊池寛が中心となり行った。
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