ことばのさすらい
~「俳句」と「異文化」による出会い~

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俳句の視点から(15) 「タイパをどう考えるか ~精神的充足へ向けて~」

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俳句の視点から(15) 「タイパをどう考えるか ~精神的充足へ向けて~」

 「タイパ」という価値観が社会に広がり、定着した感があります。「タイパ」とは「time performance」の略で、「時間に見合った効率性」と理解しています。廣瀬涼の『タイパの経済学』(2023年9月刊)によると、「タイパ」の考え方の根底には、お金や時間を費やしたのにつまらない、役に立たないという結果が生まれると、それに対して損をしたと感じる心性があるといいます。ある消費に費やした時間を他のもっと有益な消費に費やしていればよかったと思ったり、他人が得をしているのに自分がその状態にないと思ったりするからです。人はそうした負の感情を避け、損をしないように考えます。消費に失敗したくないと考えるのです。

 また、「タイパ」の追求の果てに「必要不可欠ではないモノ」の消費が大きな意味を持ってきているとも指摘します。たとえば、映画を観るという行為。本来は映画を観ることで感動を得る楽しさを味わう行為のはずですが、今では、それ以上に映画の感想を共有し合い、友達と良好な関係を築くために映画を消費する傾向があるといいます。映画を観て感動するという「精神的な充足感」よりも友達と「つながる」ことを目的とする消費の方が大事というわけです。「つながる」ことが目的となると、どんな映画だったかという結果を手っ取り早く把握しようとします。「必要不可欠」のはずの映画鑑賞が友達と「つながる」ための手段と化し、「タイパ」を求めるようになるのです。そこには主体性は存在しません。

 「タイパ」の意義はそのようなやり方ではないと廣瀬はみています。<自分にとって精神的充足になるならば消費すべきだし、自分にとって大事なイベントや叶えたい夢ならば他人にどう言われようが追求すべきだ。そのような消費を増やすために、「じゃないモノ」への消費を効率化することこそが、現代消費社会におけるタイパ追求の意義である>といいます。

 「精神的な充足感」を主体的に求めていくことが生きることの意義であるとするならば、それは手間暇のかかることで、「タイパ」が悪いとなるでしょう。廣瀬のポイントは、その手間暇のかかる本来部分を追求するために他の重要ではない消費を「タイパ」を考えて効率化すべき、というのです。

 ところで、俳句は「タイパ」の考えからほど遠い文芸です。俳句をしっかり理解していこうと思うなら、手間暇かけて季語や俳句表現、あるいは俳句史のことを勉強する必要があります。こればかりは「手っ取り早く」という近道はありません。ただ、俳句はたった一句で共感を得られる文芸です。長いストーリーを書かずとも十七音に託すことで気づきを促し、感動を与えることができます。私はこの俳句の持つ「ショート性」に注目します。

 一句は短いのでとっつきやすいと思います。まずは一句の鑑賞や句づくりから入っていきます。そこで興味が広がっていけば、やがては俳句がその人の必要不可欠なモノ(=精神的な充足感)へとつながるかもしれません。「タイパ」とも相性がよさそうです。俳句の場合、「タイパ」の考え方が俳句への入口になり得るかもしれません。「タイパ」と俳句の「ショート性」。この親和性から年配者の多い俳句人口が少しでも若い人に広がっていけばいいなと思います。

 このように俳句から考えると、「タイパ」は新たな精神的充足を得るためのきっかけとしても考えられます。いきなり手間暇かけて入りこむのではなく、まずは「タイパ」的発想から入ってみる。手間暇かける前にハードルを下げるツールとして「タイパ」を捉えてみるのです。まず入ってみる、やってみる、というアジャイル的行動の支柱として「タイパ」的発想はあり得るのではと思います。

筆者紹介

仲 栄司

Eiji Naka

大学でドイツ語を学び、1982年、日本電気(株)に入社。退職まで一貫して海外事業に携わり、ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールに駐在。訪問国数は約50カ国。
趣味は俳句。『ダリの時計』(句集)、『墓碑はるかなり』(評論)を上梓。
座右の銘は「南国のしあはせバナナあれば足る」
東南アジアの「空気感」が大好きです。