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熱帯と創作(13) 『花の町』~平和の虚構性~

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熱帯と創作(13) 『花の町』~平和の虚構性~

 井伏鱒二は1941年11月に徴用され、マレー戦線に従軍しました。翌1942年2月15日、シンガポールが陥落、井伏はその翌日にシンガポールに入りました。その直後、「昭南タイムズ」の編集責任者を命じられ、2か月務めています。そのときの心境を<野球を少しも知らない人間が、いきなり職業野球の捕手を云ひつけられたやうなもの>(『徴用中のこと(第二回)』と書いています。井伏にとっては、軍の片棒を担ぐような仕事はかなわないという気持だったのではないでしょうか。

 1年後の1942年11月、井伏は日本に帰国しますが、その前の8月から10月まで『花の街』という作品を『東京日日新聞』に連載し、翌年に『花の町』として刊行しました。連載が始まる前に「作者の言葉」(1942年8月13日)を 寄せています。

 <昭南市はいま非常に平和である。非常によく治まつてゐる。嘘ではないかと思はれるほどに平和である。(これではもつたいないほど平和ではないか)街を歩いてゐても、宿舎にゐても、私の念頭から去らないのはこの一事である。しかしこの平和の街にも不幸な人もあり、また幸福を感じてゐる人もあらう。それはいふまでもないことである。私はこの市内における或る長屋の或る一家族の動きを丹念に描写して、疑ひなくこの街の平和を信ずる市民のあることを知る一つの資料としたいのである>

 『花の町』は、一見平和な日常を描いた作品に思われます。私の最初の印象も戦時下の作品にしてはあまりにも薄味で平坦でした。しかし、丹念に読んでいくと日本軍支配に対する風刺が浮かび上がってきます。「疑ひなくこの街の平和を信ずる市民のあること」という表現に井伏の一筋縄ではいかない作家魂を感じます。「信ずる」というところに悲劇のニュアンスが感じられます。

 この作品では日本軍の占領政策の一つ、日本語普及工作のことが書かれています。詳細は省きますが、軍の推進する日本語とは違う根源的な母国語への懐かしさを主人公の「平仮名を書きたい」という言葉に込めます。現地民と漢字で筆談しなければならないことへの反動です。また、題名の「花」の意味するところは、「ブンガ・チャパカ」という花が穴の中で強烈なにおいを放っていたことからきています。日本人の主人公が「この穴は何であるか。おそらくは子供たちの砂遊びする場所であろう」と尋ねると、「この地面の穴は、砲弾の跡でございます。日本軍が二月十四日に、ブキテマからカセイ・ビルを撃ちました」と現地民が答えます。花の甘い匂いには、戦争の傷跡が隠されていたのです。作品には描かれていませんが、そこには「華僑粛清」の強い影も感じられます。

 占領下の生活には、日本人と現地民の間は勿論のこと、日本人同士、現地民同士でもずれがあります。そのぎくしゃくした感じが終始この作品を覆っています。井伏はそうした「平和のぎこちなさ」、もっと言えば「平和の虚構性」を示したかったのではないかと思います。そこに戦争の正体があるのだと。また、井伏は単に日本軍を皮肉っているだけではなく、支配者側も被支配者側も誰もが加害者にも被害者にもなり得るという視点を提起しているように思います。何もできない自分をも加害者として批判する姿勢は、戦争の本質を静かに抉っているように思いました。

(追記)

 シンガポール在住中、私は「サマセット」駅からすぐのコンドミニアムに住んでいました。井伏鱒二が住んでいた場所は私のコンドミニアムから歩いて5分もかかりませんでした。建物は当時のものではなかったかもしれませんが、井伏は毎日そこから「昭南タイムズ」の事務所(シェントン地区)へ歩いて通っていました。その距離感や暑さを少しでも味わうと私も歩いてみました。3年半という日本軍の占領時代のことを考えながら。

 

筆者紹介

仲 栄司

Eiji Naka

大学でドイツ語を学び、1982年、日本電気(株)に入社。退職まで一貫して海外事業に携わり、ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールに駐在。訪問国数は約50カ国。
趣味は俳句。『ダリの時計』(句集)、『墓碑はるかなり』(評論)を上梓。
座右の銘は「南国のしあはせバナナあれば足る」
東南アジアの「空気感」が大好きです。