「熱帯と創作」(3)『サンダカン八番娼館』 ~どん底から哲学的深みへ~
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「事実は小説より奇なり」とは、イギリスの詩人バイロンの『ドン・ジュアン』の一節から生まれた表現です。女性史研究家、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』(1972年刊)を読んでそんな感想を持ちました。この作品は「からゆきさん」のことを描いたノンフィクションですが、その内容はすさまじいまでの「からゆきさん」の生き方を描いています
明治から戦前までの日本人の南洋進出のパターンは、娼婦が最初に赴き、そのあと呉服屋、日用雑貨商、旅館業、写真屋などが娼婦に寄生するかたちで出向きました。出稼ぎのため海外へ娼婦として渡った女性を「からゆきさん」と呼びますが、『サンダカン八番娼館』は、「からゆきさん」だったおサキさんに実際に会って取材した作品です。「からゆきさん」だった人は、戦後はかつての娼婦生活を忘れようと静かに暮らしていました。だから、経験談を引き出すことは並大抵ではありませんでした。
食堂でおサキさんと偶然出会い、その言葉からかつての「からゆきさん」と思った著者は、おサキさんと一緒に村まで行き、家に上がります。畳は腐って百足の巣になっていましたが、著者は構わず、一緒に昼寝をします。息子ですら汚い家に上がることはしないのに、昼寝までする都会者の著者に、おサキさんは「うちは、死ぬまで奥さんを忘ればせんばい!」と言います。著者は、一日三度の麦飯を食べ、何千人もの異国の男たちが横になったボルネオ綿の蒲団に眠り、裏の崖っぷちに穴を掘って用を足すという生活を三週間続けました。この取材姿勢と強固な覚悟に読者は脱帽するしかありません。
こうした体当たりの取材とおサキさんの心に寄り添う姿勢により、著者はやがておサキさんの人生を聞き出すことに成功します。この研究者魂を感得するだけでもこの作品を読む価値は十分にありますし、おサキさんが歩んだ生涯を知ることも貴重な歴史の認識につながります。しかし、私が一番感動したのは、次のようなやり取りでした。
おサキさんはいきなり出会った著者に何者であるか一度も訊きませんでした。「どんな身元の人間なのか知りたいと思わなかったのか」と訊いても、おサキさんは、「けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。お前が何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」と穏やかに答えるだけでした。
そうしたおサキさんの人間の器の大きさに感じ入った著者は、<軽率で思いやりのない人間は、人が誰にも打ち明けようとしない苦悩や秘密をいだいていれば、何とかしてそれを聞き出そうとすることが多いが、思慮深く思いやりのある人間は、そういう悩みをかかえた人をその当人の気持のままにそっとしておき、何をしてやることもできず、その人を遠くからただ見守らざるを得ない苦しみを、自らに引き受けるのだ>と思うのでした。
おサキさんの言葉に接したとき、著者にはおサキさんへの深い信頼と尊敬の念が生じ、取材の理由を含めた自分自身のことのすべてを打ち明けることを決意します。「からゆきさん」の話を探りに来た女と察知しながら力を貸すおサキさんに、著者は次のように思うのでした。
からゆきさんをはじめ多種多様な売春婦たちのなかには、肉体を売って生きなければならないという同一の条件のもとで、絶望して自堕落になって行く人がある一方、どん底の汚辱を見極めたまさにそのことに学んで人格的に円熟し、思想的・哲学的な深みにまで達する人もあるのだ。そしてこのことは、従来の売春婦研究から洩れていることであればあるほど、自らの春を鬻がずしては生活できなかった底辺女性の名誉のために、私はここに明記しておかねばならないと信ずるのである—–
『サンダカン八番娼館』は、かつて「からゆきさん」だった人の気高い魂とそれを心の底から理解し得た女性史研究家との美しい邂逅の話でもあります。学校にも行けず、教養もないおサキさんが「からゆきさん」の生活をとおして達した境地は尊いと思います。
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