「熱帯と創作」(2)『月と六ペンス』 ~人間の持つ矛盾~
- 熱帯と創作
サマセット・モームの描いた20世紀前半の大英帝国の世界は、南洋の国の人々を見下すイギリス人や帝国主義の価値観を見事に浮き彫りにしています。優越感、差別意識、経済的価値への傾倒をモームは南洋の美しい景観と対比させることでその空虚さを鮮明にしたのではないかと思います。文明国とまったくちがう南洋の世界には、詩的で永遠の美がありました。原始的であるがままの自然は、根源的な美を見極めようとする人間の魂を揺さぶります。
モームの代表作『月と六ペンス』は、そのことを鮮やかに描いています。「月」は熱帯の自然を、「六ペンス」は帝国主義を象徴したタイトルではないかと思います。主人公はパリの証券会社で働いていましたが、絵を描くため家族を捨て、やがてタヒチに渡ります。ぶっきらぼうで利己的で気まぐれな言動の主人公でしたが、タヒチでは人々に受け入れられ、死ぬ間際まで絵を描き続けました。主人公の最後の絵を見た医者は、「驚異的で、官能的で、情熱的な絵。同時にどこか残酷でもあった。人を怯えさせるなにかがある。その絵を描いたのは秘められた自然の深みにわけ入り、美しくもおそろしい秘密を探り当てた男だ。その絵を描いたのは、知ってはならない秘密を知った罪深い男だ。原始的で、恐ろしい絵」と語ります。
モームは熱帯の自然が人間の魂を揺さぶる一方、帝国主義の世界が空虚なものであることを十分に体得していました。それでいて、「ラッフルズホテル」のような帝国主義の象徴の世界をも愛していました。ここに人間の持つ矛盾があります。しかし、この矛盾、首尾一貫性の欠如こそが人間だとモームは看破します。「同じ人間の中にとうてい調和できぬ諸性質が存在していて、それにもかかわらず、もっともらしい調和を生み出している事実に私は驚いてきた」(『サミング・アップ』17章)
モームは「人間の矛盾」を小説のかたちで曝していった作家なのだと思います。そこにモームの作家としてのモチベーションがあったのではないでしょうか。『月と六ペンス』はその最たる作品だと私は思います。
Related posts
関連ブログ
-
熱帯と創作
「熱帯と創作」(6)『麦と兵隊』~時局に便乗した作家だったのか~
昭和十三年、国家総動員法が施行され、日本は国民すべてを戦争に巻き込む総力戦へ突入しました。日中戦争の最中でした。同様に…
-
熱帯と創作
「熱帯と創作」(5)『マレー蘭印紀行』 ~放浪の哲学~
明治から戦前にかけてシンガポールを訪れた日本人は、欧州航路の途中に寄港する人たちがほとんどで、しかも短期滞在でした。し…
-
熱帯と創作
「熱帯と創作」(4)『昭南島に蘭ありや』~国家のエゴを考える~
かつてシンガポールには「昭南島」と呼ばれた時代がありました。1942年2月15日から1945年9月12日までのわずか3…
-
熱帯と創作
「熱帯と創作」(3)『サンダカン八番娼館』 ~どん底から哲学的深みへ~
「事実は小説より奇なり」とは、イギリスの詩人バイロンの『ドン・ジュアン』の一節から生まれた表現です。女性史研究家、山崎…