ことばのさすらい
~「俳句」と「異文化」による出会い~

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俳句の視点から (16) 「資本主義との距離感の調整~追われている感覚から免れる~」

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俳句の視点から (16)  「資本主義との距離感の調整~追われている感覚から免れる~」

 社会人になってからずっと「追われている感覚」がありました。俳句をやり出してからは軽減されましたが、このしんどい感覚は現代社会の特徴のように思います。これは資本主義にも原因があるのではと漠然と思いながら、先日丸善で本を探していると、『資本主義と生きていく』(2026年3月刊)という書に出合いました。さっそくこの書を繙くと、まさに私が感じていることが書かれていました。

 著者の品川皓亮は、この「追われている感覚」をもたらす「追手」には6人いるといいます。すなわち、「時間」「消費」「お金」「労働」「成長」「数字」です。この6人の「追手」の親玉が「資本主義」というわけですが、6人の「追手」を生み出す「資本主義」は、それぞれ「分業」「市場」「商品」「資本」「イノベーション」「金融」という構成要素で成り立っているといいます。この書は、そうした資本主義の特徴や構造を理解した上で、一人一人が「資本主義」と距離感を調整することが大事だと述べています。また、この書のおもしろいところは、「読んで終わり」ではなく、「資本主義を自分なりに探求する入口」として活用して欲しいといいます。

 私のしんどい感覚は、「俳句をやり出してからは軽減されました」と書きましたが、俳句には資本主義とは違う尺度があるからだと思います。それは創作活動という領域だからでしょう。ただ、賞に応募するとか句会で点を取りたいといった欲望が出てくると、そこには「成長」「数字」といった尺度が入ってきます。とはいえ、そうしたことは純粋に俳句を詠むという創作活動からは外れた領域の話です。

 俳句の創作活動という領域に限定した場合、俳句が資本主義の尺度と最も違う点は、「時間」ではないかと思います。「時間」という「追手」は、古来の「自然と一体となった循環的な時間間隔」が工場やオフィスのように「近代的な時間支配に基づく時間感覚」へと移ったことで、時間による管理が行われ、時間に支配されることから生じました。しかし、俳句は「花鳥諷詠」の世界といわれます。そこでの時間は季節とともに循環し、永遠に繰り返す時間です。人間の作る時間ではなく、自然が織りなす時間です。俳句はそうした時間の感覚をベースに詠まれます。

 人間は資本主義の世界から時々離れることが必要かもしれません。「追われている感覚」から免れた世界に浸かることも時に大切なのではないかと思います。俳句や他の芸術活動を人間は必要とし、快く思うのは、「追われている感覚」から免れる状態を享受できるからなのかもしれません。それが著者の言う「資本主義」との距離感の調整と言うことなのだと思います。

 

 

筆者紹介

仲 栄司

Eiji Naka

大学でドイツ語を学び、1982年、日本電気(株)に入社。退職まで一貫して海外事業に携わり、ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールに駐在。訪問国数は約50カ国。
趣味は俳句。『ダリの時計』(句集)、『墓碑はるかなり』(評論)を上梓。
座右の銘は「南国のしあはせバナナあれば足る」
東南アジアの「空気感」が大好きです。